まじま省三

日本共産党

プロフィール

まじま省三プロフィール

まじま 省三(真島 しょうぞう)

  • 日本共産党中央委員
  • 1963年(昭和38年)1月12日 長崎県佐世保市生まれ
  • 佐世保市立山手小学校、同花園中学校、長崎県立佐世保北高校 卒
  • 九州工業大学 1981年入学、1985年中退
  • 日本民主青年同盟戸畑地区委員長、日本共産党八幡戸畑遠賀地区委員長、日本共産党福岡県委員会書記長などを歴任
  • 福岡県議会議員1期(2007年~2011年)
  • 衆議院議員1期(2014年~2017年)
  • 家族 パートナーと息子
  • 趣味 読書・映画鑑賞
  • 北九州市八幡西区在住

軍都・佐世保に生まれる 1963年〜

まじま省三 1963年1月12日生まれる

私は、1963年(昭和38年)1月12日、長崎県佐世保市で生まれました。「三八豪雪」(1962年12月末から1963年2月初めまで、約1カ月にわたり東北地方から九州にかけての広い範囲で起こった雪害)のまっただ中でした。

佐世保は、明治以来の軍事都市、戦後は米軍基地の街。子どものころは他の街のことは知りませんから、港にいつも軍艦が停泊し、街を米軍兵やセーラー服の海上自衛隊員が歩き回っている風景が当たり前でした。親戚の誰かが米軍基地で働いている、クラスに1人は自衛官の子どもがいる、中学校で毎年自衛隊勧誘の説明会がある、デパートではしょっちゅう自衛隊の写真展が開かれている、そんな街でした。大学に進学して佐世保を離れて、初めて佐世保がいかに“特殊な街”であったかがわかりました。大学で日本民主青年同盟に入り、巡航ミサイル搭載の米艦船入港に抗議する集会に佐世保に行ったときは、生まれ育ったふるさとがまるで違う街のように感じました。

「アメ公が来る!」

中学のとき、入院していた祖母が亡くなる少し前に「アメ公が来る!アメ公が来る!」とうわごとを言っていました。「お国のために」と息子たちを戦場に送り出した“軍国の母”にとって、日本の敗戦はどんなにショックだったのか。そして、その息子たちの安否も定かでない中、「鬼畜」と呼んでいたアメリカ兵が占領者として佐世保にやってきたことが一生引きずるトラウマだったのです。祖母は、戦後も昭和天皇・皇后の写真を壁にかけ、毎日拝んでいたと父から聞きました。ですから、祖母が言った「アメ公が来る!」は「怖い」という意味ではなく、「わが子を差し出してまでたたかったのになぜこんなことに!悔しい!」という思いではないかと私は考えています。

「小利口な人間になるなよ」

若い父と

2017年に他界した父は、中学教員で社会党員でした。私が子どものころは組合活動でストライキばっかりしていた印象があります。戦争と米軍と自民党が大嫌いで、仲間とお酒が大好きな人でした。うらやましいほどの純粋な情熱の持ち主でした。1994年に自社さ連立政権、村山富市内閣ができたときに、怒って社会党を離党。その数年後、「おい、日本共産党に入党したぞ」と言うのです。私が学生のころ佐世保に帰省したおり、日本共産党に入党したことをカミングアウトすると、さんざん日本共産党の悪口を言ってからんだくせにと思い、たいへん驚きました。

私が若いころに父によく言われた言葉、「小利口な人間にはなるなよ」。ずっと大切にしています。「不器用でも自分に正直に生きたい。強いものに媚びる生き方はしたくない」という私の生き方の信条になっています。

「あんたちゃんと食べよるとね?」

母におぶられて

いまは佐世保のケア付きホームに入所している母は、農家の末娘で、本当に純朴な人です。私がせっかく通わせてくれた大学を勝手に中退したときも、それを責めることなく、いつも口にするのは「あんたちゃんと食べよるとね?」。その言葉を母が口にしなくなったのは、私が結婚してからでした。思いやりの固まりのような人です。数年前に私がすすめて日本共産党に入党しました。母のホーム入所のために荷物を整理していたら、「しんぶん赤旗」に載った私の記事を張り付けたスクラップブックが10冊以上になっていました。母の愛に涙しました。

アウトドア派からインドア派に 《少年時代》 1970年〜1978年

妹と一緒に

小学校低学年のころは、佐世保ゴマ、ぺちゃ(めんこ)にはまり、近所のガキ大将たちと終日あそんでいました。完全なアウトドア派で、探検と称して近所の川を源流までさかのぼったり、山で「藪漕ぎ」をしたり、山の中の木の上や藪の中に秘密基地をつくったり、野イチゴ、マテ(どんぐり)、アケビ、イチジク、グミ、ヤマモモなどなど四季おりおりの木の実を食べまくっていたサルのような子どもでした。畑に忍び込んできゅうりやびわを食べて怒られました。

仮面ライダーにはまる

小学校の友人らと

小学校2年生のときに放送が始まった仮面ライダーにはまりました。当時、友達がみんな軟式野球チームに入ったので私も入ったのですが、練習時間が仮面ライダーの放送時間と重なっていたので、3日で辞めました。仮面ライダーは子どもたちの間で大ブームになり、カードがもらえる仮面ライダースナックがバカ売れ。お小遣いを全部スナックにつぎ込むような子どもが相次ぎました。金持ちの子はカードほしさに10袋くらい買い占めるのですが、スナックは食べずに捨てようとするのです。私はそれが何となく許せずに、金持ちの子が買ったスナックを「捨てるならくれ」と一手に引き受けていました。

「ピースマン」

小学校高学年くらいから、漫画にはまりました。とくに、赤塚不二夫の「天才バカボン」。母親にねだってコミックを全巻揃えました。私自身も自作の漫画を描いて、将来は「漫画家になりたい」と思っていました。漫画のタイトルは「ピースマン」。どんな悪い奴があばれていても、それを平和的に解決するというテーマの漫画でした。そのときは、アンパンマンという漫画の存在を知らなかったのですが、奇しくも似たようなテーマでした。

読書にふける思春期

中学生、修学旅行

中学に入ってからしばらくは、小学校の延長線上のいたずらっ子で暴れまわっていましたが、中学3年生になって急に思春期に入り、読書にふけるインドア派になりました。生き方を模索して図書館で伝記の類を借りて読み漁りました。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで感動し、自分の信念をもって悔いのない生き方をしたいと思いつつ高校受験に。

受験競争に違和感を抱いた高校時代 1978年〜1981年

高校は進学校にすすみました。最初、小学校、中学校までいっしょだった仲間たちが、進学、就職とばらばらになる喪失感がありました。その後、ゼロ時限に夏休みもない補習授業、模擬試験と成績順位の張り出し(個人情報保護などなかった)、「偏差値、偏差値」と耳にタコができるほど言われ、まるで大学受験のためにあるような異様な高校の在り方、受験競争に強い違和感がありました。

タブーに切り込んだ新聞部活動

2年生のときに新聞部に入りました。当時の顧問の先生から、「報道の自由」をめぐる歴史と「どんな圧力にも屈せず真実を報道する姿勢こそジャーナリズムの神髄」であるという話に感動し、はまりました。それまでの高校新聞は高校の広報紙のようで読みたくなるような目を引く記事がなく、ただ紙面を文字と文章が埋めているだけというもので、実際にほとんど生徒たちに読まれていませんでした。高校生活のなかでタブーの問題に切り込み、問題提起をして、読まれる紙面にしたいと仲間と議論し、校則問題や補習授業の是非などをテーマにしました。生徒、先生、保護者にまで徹底してインタビューをして多様な意見があることを示しながら、「校則は何のためにあるのか」「補習授業を強制していいのか」と切り込みました。たいへん物議をかもし、話題になり、高校の空気が変わった気がしました。

ところが、新聞部の顧問の先生が突然かわり、私たちの記事に赤ペンで××の「検閲」を連発してきました。私が書いた「日の丸・君が代」問題についての「社説」について、その先生は「このテーマは高校生らしくない」と大きな×をつけました。私は納得できず、「なぜ高校生が日の丸・君が代問題を論じてはいけないのですか。それなら先生が言う高校生らしいテーマとは何なんですか」と食い下がると、先生は「それはだな…学業とか恋愛とかだな」としどろもどろ。高校生になって内向的だった私が理不尽な大人と対決した初めての場面でした。

共通一次学力試験受験票

生き方を模索した大学時代 1981年〜1985年

北九州市の九州工業大学(工学部機械工学科)に進学。高校のとき、自分が何をしたいのかがはっきりせず、それこそ「偏差値」で高校の担任と親にすすめられるままに進路を決めました。いま考えると、自分は理系よりも文系だったなと思うのですが、当時早くも1年の夏休み前には何となく進路を間違っていたと感じていました。同じような思いで、夏休み前に辞めていく新入生もいましたが、そんな勇気もなく、せっかく親から大学まで行かせてもらったのだからとずるずるとすごしていました。

寮生活とワンダーフォーゲル部

ワンダーフォーゲル部

高校時代にすっかり内向的になっていた自分を変えたいと、あえてバンカラな雰囲気の残る学生寮に入り、ワンダーフォーゲル部に入部しました。そこでの先輩たち、同級生たちとの濃厚な交わりは、私の人間性を120%解放してくれ、すっかり積極的な性格に変貌しました。寮では、馬鹿みたいに酒(焼酎)を飲んでは騒ぎ、熱い議論をし、寮祭ではふんどし姿で神輿をかつぎ、寮自治会の役員も立候補してつとめました。ワンダーフォーゲル部では3年間、登山やロード(野宿しながらの旅)に明け暮れました。夏休みには半月間、北アルプスや南アルプスの縦走、秋には九重、祖母・傾、大崩、屋久島などの九州の山や四国の石鎚山に登りました。ロードは春休みに10日間ほどかけて、壱岐・対馬や能登半島などを歩きました。

日本共産党への入党

日本共産党員の寮の先輩に1年生のときに日本民主青年同盟に誘われましたが、そのときは「大学に入ったばかりなので、あと2年間自分がやりたいことをやりたい。2年間待ってください」と断りました。
私が入党したのは1983年。二十歳のときです。私の学生時代はバブル景気手前で、友人たちにこう言われました。「なんでいまどき政治活動?大人しくしていれば確実に大企業に就職できるのに」。そのころは、1981年の日本共産党排除の「社公合意」から、国鉄分割民営化、労働戦線の右翼的再編など、政治や社会、職場のすみずみまで徹底して「日本共産党を除く」流れが強まる時代でした。それは新自由主義的政策が実行され始めた時代でもありました。私はその時代の息苦しさが嫌でした。

工業大学にすすみ、私は「人間はこれだけの科学技術や生産力を手にしているのに、なぜ貧困や環境問題、戦争さえなくせないのか」という問題意識が強まっていました。本当のことが知りたかった。それが分からないから、政治や社会に疑問や批判は持っていても行動する自信と勇気がない。そんな自分が嫌でした。党員の先輩から党綱領や科学的社会主義を借りて読み、「しんぶん赤旗」を購読するなかで、受験勉強では得られない「目から鱗が落ちる」喜びを体験しました。

科学技術や生産力をもうけ第一に使う資本主義社会から、それを人間の幸せのために100%使う未来社会を本気でめざす日本共産党に感動しました。私自身、社会主義と言えば旧ソ連や中国のイメージしかありませんでしたが、発達した資本主義国日本で「すべての人間が本当の自由を得られる社会」をめざすという日本共産党の綱領、科学的社会主義の立場に立てば旧ソ連や中国の誤りがスッキリと理解できました。「この党の一員になれば、確信をもって行動できる。悔いのない人生が遅れる」と思いました。

「共闘」の力を体験した学生自治会運動

大学生のころ自宅に帰省して父と

その後、学生自治会の委員長を1期つとめました。当時、学生のサークルやクラブが入ったサークル棟が新築されることになったんですが、新サークル棟に入れるサークルやクラブを大学当局が選別しようとしました。ロックバンド系の同好会が3つ入れないという事態になったのです。その他にも、それまでのサークル棟はそれぞれのサークルやクラブが自主的に管理運営をしていましたが、新サークル棟の管理運営は大学側が行い、学生は関与させなくするという問題もありました。

私は学生自治会の委員長として、サークルやクラブのみなさんといっしょに、大学当局に抗議運動をおこしました。あきらめていたロックバンドの学生たちを「あなたたちが自らの価値をアピールできないでどうする」と励まして、「九工大からロックの灯を消すな」と昼休みにロックコンサートを開きました。

「学生の声を反映した新サークル棟の計画にせよ」ということで、ストライキ権を確立するための学生大会を呼びかけました。実は、長い間、九州工業大学の自治会では、学生大会が成立してきませんでした。委任状を認めてない規約だったということもあって、かなり成立用件が厳しかったのです。私は、伝統的に反目しあってきた体育会や文化会の会長と、「九工大のサークル活動の未来のために、両会長と自治会がここで団結しないでどうする」と何度もひざつき合わせて話し合いました。そして、体育会系、文化会系のすべてのサークル・クラブが立ち上がり、学生大会が成立しました。こうした運動の結果、ロックバンドも新しいサークル棟に入れるようになり、サークル棟の管理運営についても学生の要求がかなり反映できました。

一致する要求の実現のために、立場の違う人や疎遠だった人たちとも胸襟を開いて語り合い、手をつないでいくことによって大きなエネルギーを生みだし、とうてい無理に思えていたことを動かすことができる。学生時代のこのダイナミックな経験は、今日の私をつらぬく大事な礎になっています。

大学中退と民主青年同盟 1985年〜1989年

1985年に大学を中退しました。1980年代、工業大学卒は大企業から引く手あまたで、先輩も同級生もそうそうたる企業に就職していきました。しかし、結局私は技術者として企業の歯車になる道に将来像を描けず、前述のような好きなことばかりをして大学時代を過ごして、学業に身が入らずに留年を繰り返していました。これ以上親に学費を負担させ続けても自分はこの道では続かないと思い、親にも言わずに退学届けを出しました。自分の息子が当時の私と同じ年齢になり、どれだけ親に心配をかけたのかを思うと心苦しくなります。

その後、父から「佐世保に帰ってこい。就職先は探してやるから」と何度も言われましたが、私はなぜか「北九州市で生きていきたい」という強い思いをもっていました。私は党と労働者のたたかいの息吹を感じたこの街がとても好きになっていたのです。

ちょうど原水爆禁止日本協議会が核兵器廃絶を求める「広島・長崎アピール署名」を人口の過半数集めるという大運動にとりくみ始めたときで、党戸畑地区委員会の方から「原水爆禁止戸畑協議会の臨時の事務局でバイトしないか」と誘われ、1年半ほどお世話になりました。その後、日本民主青年同盟戸畑地区委員会の地区委員長として、民青中央委員会の財政支援も受けながら2年半活動しましたが、経済的には困窮していきました。

日本共産党の専従時代 1989年〜2007年

1989年(26歳)、当時の党八幡遠賀地区委員会から、「赤旗出張所で働かないか」と声をかけられました。食うにも事欠くほどの生活になっていた私は、「大好きな日本共産党の活動を職業にして、給料までちゃんともらえるなんて、こんな幸せなことはない」と即座に決めました。

高い意識性と粘り強さ身に着けた機関紙活動

専従の頃

当時の「赤旗出張所」とは、「しんぶん赤旗」の配達・集金のセンターです。ちょうど日刊紙の専任のポスト卸し(地域ごとの配達者が新聞を取りに来るポストに地区に届いた日刊紙を卸す仕事)の人が交通事故で穴が開いて、運転免許取り立ての私が、深夜1時半からポスト卸しをしてそのまま数コースの早朝配達を連日朝6時近くまで行いました。毎日、毎週の配達、そして毎月の集金。多くの日本共産党員のみなさんがボランティアでとりくむ機関紙活動は、本当に地味な活動ですが、党活動のなかでももっとも高い意識性と粘り強さが必要な活動です。この営々とした連携プレーが、日本共産党と国民の強固な絆となり、企業団体献金も政党助成金も受け取らずに活動できるブレない党の土台となっていることを知りました。

その後、党地区委員会の機関紙部長、地区常任委員となり、最後は6年ほど地区委員長をつとめ、さまざまな住民運動、党建設、そして国政選挙、地方選挙などに取り組んできました。

当初私は、学生からそのまま党の専従になって労働者を経験していないことを「引け目」に感じていました。私は給料をもらって党活動をしているのに、一般の党員のみなさんは仕事をして、その後に配達・集金や党活動をしているのです。だからこそ、全身全霊で専従者として働きました。もともと、「受け身」で仕事をするのが嫌いだったので、自分で方針と計画をもって「攻め」の仕事をするように努力しました。その方が苦労はあっても断然面白いのです。

生意気にも若い私は先輩ばかりの地区委員会のなかで、どんどん「改革の提案」をしていました。「改革の提案」をしようと思えば、説得力が必要ですので相当な勉強もしました。また、現場の党支部に入っていっしょに汗を流し、ともに泣き笑いすることを心がけました。そうしたなかで、先ほど述べた「引け目」はいっさいなくなりました。

党活動最高のだいご味を感じた地区委員会活動

振り返ると、党活動で一番たいへんだけど一番やりがいがあったのが党地区委員長でした。日本共産党の「主役」は、国民のみなさんに直接向き合っている党支部です。その党支部を直接励ましてリードしていくのが党地区委員会です。地区委員長は、住民運動も党建設も自治体活動も選挙も全責任をおっています。それぞれの分野に目標をもって挑戦していく。どうやったらできるかトコトン考え、具体化し、実行する。みんながその気になって、団結しないとなしとげることはできない。そのためにもまず、リーダーである自分が「絶対にやりぬくぞ」という気概をもってリードする。目標への団結と立ち上がりがじわじわ広がり、大きなうねりになり、やりきったときの喜びといったら、党活動の最高のだいご味であり、ダイナミズムです。

そうしたなかで、目の前に困難があれば、わくわくする“体質”になりました。それを乗り越えることが、自らと党をステップアップさせ、新しい地平を開くという経験をしたらかです。

福岡県議会議員時代 2007年〜2011年

私はこれまで8回選挙に出ました。12005年総選挙(福岡9区)、22007年県議選(八幡西区)、32011年県議選(八幡西区)、42012年総選挙(福岡9区)、52013年参院選(福岡選挙区)、62014年総選挙(比例九州沖縄・福岡9区)、72017年総選挙(比例九州沖縄・福岡9区)、82021年総選挙(比例九州沖縄・福岡9区)。当選したのは、2007年の県議選と2014年の総選挙です。

2007年(44歳)に県議に初当選したとき、3人の先輩現職県議が落選し、当時定数88のなかで唯一の野党である日本共産党の議席は私1人だけとなりました。当選した喜びよりも、初めての議員活動がこれからどうなるのだろうと不安に包まれたことを憶えています。

身近に相談できる先輩議員がいない1人議員のたいへんさ、市町村議員のみなさんのご苦労を思い知りました。右も左もわからない県議会で、議員として質問や議会のやり方に習熟してくのも大変でしたし、何より「共産党以外は事実上知事のオール与党」の県議会で、県民から寄せられる要望・請願をほぼ一手に引き受けて奮闘するという意味でも、ものすごい重責を背負うことになりました。しかし、そこは日本共産党のチーム力。熟達した事務局のみなさんはもちろん、県下の市町村議会議員、そして党員・党支部のみなさんに様々なサポートに助けられました。

命を削るような必死の質問準備

福岡県は、巨大ダム、空港、第二関門橋などの不要な大型開発の浪費、巨額の補助金や県の仕事の委託料などを大企業にばらまきながら、社会保障の切り捨てでは国いいなりの“優等生”で、全国屈指の県民の貧困には向き合おうとしない県政でした。

知事を直接ただせる毎回の本会議での議員1人8分の一般質問、所属委員会での質問、一つ一つの議案への質疑などの準備で、現場に行って県民の声を聞き、これ以上調べようがないというくらい納得できるまで徹底的に調べて質問をつくりました。質問によっては、集めた資料が段ボール箱1箱以上になることも。私の質問の作り方は、まず時間制限を考えずに、県民の声、調べた内容をすべて盛り込んでつくりますから、そのままだと何時間でもしゃべれる内容になります。一般質問だとそれを8分に削りこんでいくのですが、それが胃が痛くなる作業です。「あれも言いたい」「あの人の声も紹介したい」と葛藤しながら、一言の無駄なく8分の質問にします。大げさではなく命を削るような必死の質問準備でした。

1週間ほど行われる予算委員会または決算委員会での質問が、1人会派は4年に1回だけできました。1週間毎日、県政のすべての問題についてただすことができ、質問時間も長く、本当にやりがいがありました。

うれしかったのは、国会論戦とも結んで18歳以下の子どもの国民健康保険証の取り上げをやめさせたことです。私は、高すぎる国保料の引き下げとともに、生存権にかかわる保険証の取り上げをやめるよう一貫して求めていましたが、当時とりわけ「子どもの無保険」が社会問題になっていました。行政の判断で貧困の連鎖を子どもの命にまで及ぼしていたのです。学校の先生から聞いた、学校でケガをした子どもが「先生、うち保険証がないから病院には連れていかんでくれ」と言ったという話を紹介し、「子どもに何の罪があるのか」とただしました。

他党議員にも共感を広げる論戦

私は他党の議員の本会議質問でも、県民の利益に反する内容でない限り、リスペクトの拍手をしました。ところが、はじめのうち私の質問が終わったあとはシーンとして誰も拍手をしてくれないのです。「これが唯一の野党ということか」と。私は「よ~し、それなら他党議員も思わず拍手をしてしまうような質問をしてやるぞ」と心に決め、知事や県当局に対して説得力のある批判とともに、「県民の立場に立てばこうするのが当然でしょ」という提案型の質問を行う努力をしました。すると、その後の議会で他党議員の席から拍手が出始めたのです。

任期中に福岡都市圏と北九州市に浸水被害が出た豪雨災害が起きました。ダム開発予算は過去最高に膨らむなか、河川整備予算が一貫して減らされ、土砂災害危険個所の指定が遅々としてすすんでいないことを指摘し、身近な災害対策の予算を増やせば地元の仕事づくりにもなるではないかと指摘しました。休み時間に自民党や無所属の議員に声をかけられ、「『不要なダムをやめて河川整備予算を増やせ』という追及はそのとおり。うちの地元の河川も予算が少なく整備が手つかず。私は(自民党なので)言えないので、もっとどんどん言ってくれ」と言われました。私が、地元業者の仕事起こし、経済対策として住宅リフォーム助成制度の実施を迫る質問をした次の議会で、自民党の若い議員が「前の議会でまじま省三議員が質問していた住宅リフォーム助成制度について」と果敢に実施を迫る質問をしたのには驚きました。

議席の値打ちを生かし、県民とともに

1議席しかないと所属できない委員会が多く、質問機会も限られ、そのままでは扱えない県民要求や課題がたくさんあります。そこで、課題ごとに徹底調査して「談話」「声明」「提言」をどんどん出し、県に申し入れ、県庁記者クラブで会見をしました。議席の値打ちを存分に生かし、県民に県政を知らせて県民とともにたたかうという立場からです。

中でも議会改革の提案は大きな注目を浴びました。「質問を役人に書いてもらう」(読売新聞が報道)県議、一度も本会議質問しない県議がいる一方で、税金でリムジンを借り切っての豪華「海外視察」や政務調査費で、政治資金パーティ券、うな重、寿司、官能小説まで…。県議会は腐りきっていました。
私はこうした実態をあばくとともに、「議会改革」の提案をしました。私たちの調査はマスコミでもしばしばとりあげられ、福岡県議会の腐敗ぶりは、満天下に知られるところとなりました。もちろん、日本共産党県議団は、税金での海外視察には参加せず、議員報酬引き上げにも反対、政務調査費も率先して公開してきました。こうしたなかで、議員一人百万円の海外視察が廃止となり、政調費の領収書添付も議会で義務づけられました。

リーマンショック、新自由主義との対決

2008年にリーマンショックがおき、福岡県下でも自動車産業などで大規模な「派遣切り」が始まりました。仕事とともに住居を失い、路頭に迷う若い労働者が街にあふれました。人間がモノのように使い捨てにされる新自由主義の非情な社会を目の当たりにしました。

党県委員会や地方議員団のみなさんとともに、トヨタや日産、九経連などに「雇用を守る社会的責任を果たせ」と申し入れ、国会議員団のとりくみとも連携して県議会で知事をただしました。「国には、労働者の職業を安定させるための事業主の努力を助長するように努める責任がある(雇用対策法第1条)。県として、国に対して、大企業への実効ある指導、監督をおこなうよう強くもとめるべきだ」「県は、多額の県費をつかって、自動車産業などの大企業に対して、いたれりつくせりの支援をしてきた。こんなときこそ、県として直接、地元経済界や大企業に、県民の雇用と地域経済を守る社会的責任を果たすよう強くもとめるべきだ」と。

当時の麻生渡知事は、「『企業に対する県としての要請について』でございますが、景気後退に伴う派遣契約の解除等により離職を余儀なくされる労働者が増えてきていることは、憂慮すべきことと考えています。企業にとって、世界的な景気後退に伴う減産という面もありますが、雇用の場を提供するという社会的責任を認識して、雇用の維持に努めていただくことを期待するとともに、求めてまいります」と答弁しました。国会論戦では、当時の麻生太郎首相が企業にモノを言う姿勢を示していませんでしたので、知事の前向きの答弁に正直驚きました。

「町村会汚職事件」、知事を出馬断念に追い込む

2010年に騒動になった「福岡県町村会汚職事件」では、当時の中島孝之副知事と山本文男県町村会会長(添田町長・全国町村会会長)らが贈収賄の罪で起訴されました。2007年の県後期高齢者医療広域連合の設立をめぐり、広域連合の議員定数や負担金などで市側と町村側が対立し、そこで山本被告らが町村側に有利になるよう、当時、同連合設立準備委員会会長だった中島被告に100万円を贈ったという裏金接待疑惑事件でした。県議会として解明が問われたことは「構造的な贈収賄が当時の麻生県政で常態化していたのではないか」ということです。事件は氷山の一角であり、県政が「裏金」でどうゆがめられたのか、全容解明が必要でした。知事自身の任命、倫理監督責任などが問われることになったのです。

ところが、県議会は日本共産党以外の「オール与党」で、全容解明に及び腰。事件解明を求める決議を可決しましたが、「遺憾」を表明するにとどまり、極めて不十分な中身でした。県議会に調査特別委員会の設置などを求めたのは、共産党の私だけだったのです。

私が県議会で麻生知事を追及する中、県知事選出馬に意欲満々だった麻生知事は、ついに出馬断念に追いこまれました。

党議席が空白に 県書記長として再起めざす

10年にも20年にも感じた4年間でした。2011年4月の県議選は、東日本大震災、福島第一原発事故の直後でした。私の選挙区の北九州市八幡西区は定数が5から4に減り、前回よりも得票を1000票余り増やしたものの議席を失いました。同時に、福岡県の党は他の選挙区も議席奪還がならず、県議会での党議席がゼロになってしまいました。

どんなに議会で頑張っていても、日常活動の中で有権者のなかでの力関係を変えていかなければ選挙には勝てないことを思い知らされました。私は、その後、県党の書記長となり、次期県議候補のみなさんとともに県議会での党議席奪還をめざす活動を開始しました。

衆議院議員時代 2014年〜2017年

2015年の県議選での議席奪還をめざして必死の活動のさなか、2014年11月の突然の衆院解散、12月総選挙。党から福岡9区での立候補を要請され、引き受けました。その後、九州沖縄比例ブロック(名簿3位)での重複立候補に。九州沖縄比例ブロックで日本共産党は、2000年総選挙以来の2議席分の得票を確保しました。同時に、直前の沖縄県知事選挙で「オール沖縄」の翁長雄志知事誕生に続き、沖縄では1区から4区まで「オール沖縄」候補が全勝。比例名簿1位の赤嶺政賢さんが沖縄1区で当選したため、田村貴昭さんとともに私も比例で繰り上げ当選しました。

現場の実態と道理ある提案で政治を動かす

予算委員会で質問に立ち、いきなり安倍晋三首相や麻生太郎財務大臣と論戦をしました。テレビでしか見たことがない「衆議院第一委員会室」で質問に立つ自分が不思議な感じでしたが、県議会で鍛えられていたせいかあまり緊張はしていませんでした。「アベノミクスで経済がよくなっていると“自画自賛”するが、麻生大臣の地元の町工場は『アベノミクスでよくなったなんて実感は全然ない』と言っている」と現場の声を突きつけました。私は、トヨタ自動車の重層下請け構造のなかで理不尽な下請け単価の買いたたきが横行していることを告発し、国が下請けいじめを許さない指導をしなければ大企業は内部留保を増やしても町工場は苦しくなるばかりだとただしました。

国会での質問

大企業と中小企業の公正な単価での取引については、その後2年間くり返し質問しました。「書面調査だけでは取引の実態はつかめない。経済産業省、中小企業庁の職員が町工場に行き、社長と膝突き合わせて直接聞き取りをしなさい」「これまでのように『ガイドライン』で美しい取引のあり方をいくら示しても改善できていない。遵守を義務づけるルールにすべきだ」「不当な単価を押し付けられたら告発しなさいと言ったって親企業を訴えられる下請け企業なんてないでしょ。下請け検査官を抜本的に増員して抜き打ち調査をどんどんするしかないですよ」と。その後、中小企業庁による町工場に直接足をはこんでの聞き取り調査が初めて実施され、そこでつかんだ実態にもとづいて下請け法運用基準の改正、検査体制の強化が行われました。県議のときにも体験しましたが、現場の実態と道理ある提案で繰り返し質問をすれば、必ず動くと確信を得ました。

経済産業委員会 「大企業の社会的責任」をただす

衆議院では、経済産業委員会に所属し、福島第一原発の汚染水や廃炉問題、九州電力の玄海原発や川内原発の再稼働問題(地震、火山、避難計画などとの矛盾)、原発依存のエネルギー政策の転換、熊本地震や豪雨災害などからの中小・小規模事業者の生業の再建、TPPによる伝統工芸の産地への影響、小規模・地産地消・地域循環型の再生可能エネルギーの普及とメガソーラーなどの乱開発規制など、中小・小規模事業者支援を中心とした産業政策やエネルギー政策などについてさまざまな角度から論戦しました。

個々の質問には触れませんが、私は「政治とは現場。いくら永田町できれいごとを並べても、国会で決めた予算や法律が現場で1人ひとりの国民を幸せにできているかどうかだ」という立場でやっていました。

東京電力、九州電力の原発問題、トヨタ自動車の下請けいじめ、東芝の工場閉鎖、三菱自動車や電機産業のリストラ、日本製鉄で多発した労災死亡事故など、この2年8カ月にこれだけの大企業の横暴を具体的にただしてきた国会議員はおりません。振り返ると「大企業の社会的責任」にこだわっていたように思います。それは、北九州市で労働者のみなさんとともに大企業の横暴たたかってきた経験や故・小沢和秋さんの衆議院議員時代の活躍をみていたからだと思います。

九州電力に原発再稼働について説明を求めると副社長が議員会館の私の部屋に説明に来ました。また、他の企業も本社で役員が会い、説明するなど、国会議員が国会質問で取り上げるとなるとどの大企業もきちんと対応するのです。国会議員の力に驚きました。

立憲主義回復へ 〜 市民と野党の共闘の胎動

本当に激動の2年8カ月でした。最初の年の2015年は「戦争法 = 安保法制国会」。数万人の国民が繰り返し国会を包囲するなかで、安倍政権は9月まで国会を延長し、強行採決しました。その後も、秘密保護法、共謀罪の強行など立憲主義を壊す安倍政権の暴走が続きました。しかし、国民運動の高揚のなか、国会での野党共闘が発展し、立憲主義回復を求める市民と野党の共闘の胎動が始まりました。歴史が大きく動き始めたことを目の当たりにするなかでの国会活動でした。

2014年総選挙で、8議席から21議席に躍進した日本共産党がその推進力となったことは間違いありません。先の総選挙は、初めて市民と野党の共闘で政権交代に挑むという「新しいステージ」でのたたかいでしたが、支配勢力の必死の抵抗によって阻まれました。この「政治対決の弁証法」を乗り越える道もまた日本共産党の躍進にあるという思いで夏の参議院選挙、比例での躍進と福岡選挙区(定数3)での初の党議席獲得に挑みます。

家族について

結婚式

私は、1994年、31歳で結婚。1998年、35歳でパパになりました。

パートナーの裕子さんは自治体の保健所勤務で、新型コロナの感染が拡大すると残業や休日出勤が続いています。労働組合の活動も頑張っています。

私が党専従時代は、早朝配達や夜の会議、選挙間近になると事務所に泊まり込むことも多く、家族でゆっくりと食事できる日も限られていましたが、逆に時間の融通もききました。私が息子を保育所に送る担当でしたが、息子は鼻炎だったので毎朝耳鼻咽喉科に一番に連れていき、それから保育所に連れて行っていました。病院での待ち時間に絵本を読んであげたことがいい思い出です。

衆議院議員のときは「単身赴任状態」でした。何しろ1年の3分の2以上は国会にいますから、自宅に泊まる日数よりも東京の議員宿舎に泊まる日の方が多いのです。ふつうは1月から6月まである通常国会の最中は、金曜日の晩に質問関連の調査や選挙応援などに九州沖縄のどこかの県に直行して、月曜日の朝には上京します。自宅に帰る(泊まる)のは月に1日か2日でした。

2017年の落選後の4年間は、比例候補として九州沖縄ブロックを泊りがけで駆け巡りましたが、今は福岡選挙区の候補なので毎日日帰りで活動できます。息子は家を出て一人暮らしをしていますので夫婦二人。パートナーの裕子さんが仕事や組合活動で遅くならない限り、夕食をともにできるようになりました。私は手早く料理するのが苦手なので、裕子さんが20分以内くらいで魔法のような手際でつくります。疲れているのに食事をつくってくれる裕子さんに心から感謝しながら、お皿やお鍋を洗うのが私の担当です。

私を支えた言葉

「私たちのまわりでは、よく、自信があるとか、自信がないとかいう表現がされる。…私はむしろ、行為の動機に対してこそ自信のある、なしとはいえるのだと思う。あることに動こうとする自分の本心が、人間としてやむにやまれない力におされてのことだという自信があってこそ、結果の成功、不成功にかかわりなく、精一杯のところでやって見る勇気を持ち得るのだと思う。その上で成功すれば成功への過程への自信を、失敗すれば再び失敗はしないという自信を身に付けつつ、人間としての豊かさを増していけるのだと思う。行為の動機の誠実さに自分の心のよりどころを置くのではなくて、どうして人生の日々に新しい一歩を踏んでゆかなければならない青春に自信というものがあり得よう。」

宮本百合子のエッセイ「自信のあるなし」

「人は生きている。そして生きて行かなければならない。生きていることが凡(すべ)てのものの根本である以上、そのための衣食住は何を措(お)いても第一義的な事でなければならない。」

「我々の芸術は飯を食えない人にとっての料理の本であってはならぬ。」

小林多喜二

「人間にあってもっとも貴重なもの――それは生命である。それは人間に一度だけあたえられる。あてもなくすぎた年月だったと胸をいためることのないように、いやしい、そしてくだらない過去だったという恥に身をやくことのないように、この生命を生き抜かなければならない。」

N・オストロフスキー「鋼鉄はいかに鍛えられたか」より

忘れがたい本や映画

  • 絵本「タンタンタンゴはパパふたり」(ジャスティン・リチャードソン)
  • エーリヒ・マリア・レマルクの小説「西部戦線異状なし」と同名の映画(1930年米、ルイス・マイルストン監督、第3回アカデミー賞作品賞、監督賞受賞)
  • 映画「ひまわり」。1970年公開。イタリア・フランス・ソビエト連邦・アメリカ合衆国の合作映画。ヴィットリオ・デ・シーカ監督、マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが主演。
  • 手塚治虫「火の鳥」「ブラック・ジャック」。
  • チャップリン「独裁者」。
  • 1980年のNHK大河ドラマ「獅子の時代」。会津藩の下級武士である平沼銑次(菅原文太)と薩摩藩郷士の苅谷嘉顕(加藤剛)を主人公に、幕末から明治を描く。民主国家建設の理想に燃える嘉顕は、独自の憲法草案をつくるが新政府に認められず、暗殺される。銑次はやがて自由民権運動に身を投じ、困窮する秩父の農民らとともに決起する。山田太一が唯一脚本を担当した大河ドラマ。